Memory Lane
 いろんなワンコたちと暮してきた管理人たちです。昔はミクスがあたりまえだったけど、最近少なくなったねえ。

↓↓ とろ姉のワンコたち ↓↓ ↓↓ へびGのワンコたち ↓↓
■ローリー 
 柴犬ミックス(相手はシェパード系?) 1968年〜1981年

 東京の社宅から郊外の一戸建てに引っ越したのを機に、同級生の家からもらってきたのがローリー。生まれて初めて飼ったワンコだ。PTAかなんかの集まりで、O家のお母さんがポリ袋にコッソリ食べ物を詰めていたので母親がわけを聞いてみたのがきっかけらしい。本当はメスの「ポピーちゃん」を養子にだすつもりだったらしいけど、見に行ったら物置小屋の下に逃げ込んだ臆病なオスの「ローリー」を私が気に入ってしまったのだ。ピン!ときたからもうゆずれない。O家の子どもたちは渋ったそうだが、結局ローリーが来ることになった(ローリーはO家の子どもがつけた名前)。来たときはすでに5ヶ月くらいだった。

 ローリーはほんとにやさしいワンコだったと思う。生涯、人をかんだことはなかったし、人に対して攻撃的なこともなかったけれど、ナゼかニワトリを見たら人が(イヤ、犬が)かわった。近所の友達のニワトリと学校で孵化させたあと飼育していたニワトリをかみ殺してしまった。あわや保健所に…の話まで出たこともあって、今でも辛い思い出だ。当時は犬の寿命はだいたい8年くらいだったし、ワンコの最期を看取ることも難しい?時代だった(朝起きたら死んでいた、なんてことが多かった)けれど、ローリーはフィラリアに冒されながらも13年の命を生きた。雪の中に真っ赤な吐血が点々とついていたこともあったし、何度か危険な状態にもなったけれど、老衰といえるくらいまで生きてくれた(ローリーは死なない、なんて勝手に信じてたんだけど…)。
K市では13歳になると「長寿犬」として表彰されるのだが、悲しいかな、「長寿犬彰」の盾が届いたのはローリーが死んでまもなくのことだった。でも、子ども時代を一緒に過ごしたローリーは今でも思い出の中で生き続けている。

プー
 野良ミックス 1981年〜1999年

 ローリーが死んで3ヶ月ほどたったころ、へびGの大学の部室の下で(なんだか小屋の下にいるやつばっかりだな)野良犬母さんから生まれたのがプー。

 へびGの後輩が私に、「とろネエさん、犬飼いませんか?」といきなりもちかけてきた。ふたつ返事で「飼う!!」といってしまって、ちょっと後悔。ローリーが死んでまだ3ヶ月しかたってないのに…と思った。でも、13年も一緒にいたのでワンコのいない生活なんてコーヒーのない生活より何百倍もさみしい。結局、5匹いた兄弟のなかで、ローリーに近い、茶色のやつを引き取った。たぶん2ヶ月くらいだったと思う。プーは子犬のころはゴールデン・レトリバーみたいな感じでローリーのイメージとは違ったから、ちょっとがっかりだったが、もう遅い。犬を部屋の中で飼う感覚は私にはなかったけど、母親が「野良ちゃんだからかわいそう」(???)とのたまわり、しばらくは「同居」となった。部屋中を縦横無尽に駆け回り、どんどん大きくなるわ、あちこちかじるわ大変だったけれど、野良の生命力の強さはすごかった。あっというまに24キロに成長、ガヒガヒハアハアと引っ張りまわされるし、気も強くてかみつくこともあって、もちろんかわいかったけれど、ちょっと信用がおけなかった。

 プーが来て5年ほどでへび
Gと私は結婚。私が(実)家に帰らなくなったので、プーはノイローゼ(と、母が言う)にかかってしまい、しばらくの間、小屋に引きこもり、愛想がエラく悪くなった時期もあった。でも、そのうちケロッと治り、母親にべったりになったもんだ。晩年の1年間は寝たきりになってしまったけれど、母親のそれはそれは献身的な完全介護のおかげでクリスマスの朝、18年の幸せな生涯を閉じた。



■タロ  
 樺太犬ミックス 1960年前後〜1976年

 へびGは静内で生まれてすぐに苫小牧の社宅へ引越した。そこにつながれてほったらかしだったのがタロ。なんでも置手紙で「保健所にやるなり好きにしてくれ」というようなことが書かれていたらしい。犬好きだった母や姉が不憫に思いそのまま我が家で飼うことになったのだ。名前は風貌そのまま当然至極、南極犬タロからとったもの。

 まだ幼少のへび
Gにはとても扱えるような体格ではなく、散歩につれていったものの、そのまま引きずられへびGは全身傷だらけ、タロはどこかへふらふら遊びに行ったなんてこともあったし、そりに繋いで遊ぼうと思いへびGが乗ったものの弾丸のように飛び出したタロはへびGをバラ鉄線に放り出し、空のそりをひいたままどっかへいってしまった、なんてこともあった。

 今思うと手に余したまま、ほとんど庭に繋ぎっぱなしだったタロには、可哀相なことをしたし、晩年は社宅の関係で飼えなくなり、静内の実家に譲ってしまったこともあって、すまない気持ちを今も持っている。晩年静内を訪ねたとき、白内障で眼がみえないうえ、足腰も弱っていたけど、へび
Gたち家族の臭いをかぎ分けて、大喜びで迎えてくれた姿が今も忘れられない。



■ピーター  
 プードル 1967年〜1986年

 父が姉へのプレゼントとして旭川のペットショップで買った当時田舎でも珍しかった「血統書付」のワンコだ。うちにはすでにタロというワンコがいたので、2匹も飼うことにへびGはなんだか釈然としないものがあった。それになぜタロは寒い外で、こいつはうちのなかなんだ?ピーターは一番下っ端のへびGの言うことなんか聞きやしなかった。ひとりで留守番の多い母には心強い友達になったんだろう。誰より母のいうことを聞いていたピーターだった。なにせ隣に住んでいる従兄妹たちからは「ピーターおばちゃん」と親しまれていたんだから。
 けっこうわがままなワンコだったけど、頭もよくていろんなコマンドや、こちらの気持を敏感に感じ取るところがあった。ずいぶんと長生きしたけど、老齢になったころには食事制限やら、下の世話やらで母はずいぶんと熱心に面倒をみていたようだ。ま、実家の親分のつもりでもいたんだろうな。



■マイティ 
 ミックス 1971年〜1977年 
 
 もとはといえば札幌円山の社宅にすむ小学生たちが飼い始めたワンコたちの一匹だった。近くのワンコの産んだ子犬のうち何匹かを勝手に持ち出して中庭で飼い始めたのだ。でもそういう状況が長続きするわけがなく、案の定自治会で話し合い、ワンコたちを処分することになったようだ。それはとんでもないということになり、結局最後まで面倒を見ていたうちの家族が新しい社宅へ引っ越すのを機に、引き取ることになった(犬好きな家族だわ、ほんと)のだ。

 姉にはピーターというワンコがいたので、マイティはへび
Gにとっての弟分にみたいなもんだった。近くに落ちていた廃材をかき集めて、僕が自作したおんぼろ犬小屋に住んでいた。たいしてしつけはしなかった分、随分と乱暴に扱ったりしたこともあるし、思春期の不安定な気持ちを純粋な気持で受け止めてくれたマイティにはほんと感謝している。でも高校2年の冬、感染症にかかってあまりに突然に死んでしまった。当時ワクチンを打つなんてこと、まったく考えもつかなかったけれど、もう少し早く病気の前兆に気がついていれば助かったかも、という悔やみは今も持っている。





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